2017年12月10日日曜日

十二月十日 遠隔感染の原因

 一カ月ほど会っていない父が風邪を引いているという。よくよく聞いてみると、先週引いた私の風邪と症状がよく似ている。
 母は、私が父にうつしたに違いないと言い張っている。どうしたら会っていない人に感染させることができるのだろうか。
 この一カ月、父とは電話もしていないし、メールもしていない。もちろん電話やメールをしても風邪はうつらない。
 ただ、私が一番症状が酷かった日に読んでいた本を、父もその日に読んでいたということがわかった。本のタイトルは秘す。

2017年12月5日火曜日

十二月五日 お金が足りなかったおじいさん

お金が足りなかったおじいさんは、混乱を生じてレジの前でフリーズしてしまった。店員があれこれ話しかける。
「どれか買うのやめますか?」
「お金を全部出してみてください」
だが、おじいさんは小銭入れを指でかき混ぜる動作をするばかり。レジを待つ人の行列がだんだんと長くなる。
そこへ現れたのはこのスーパーの警備員のおじいさん。警備員のおじいさんは、ポケットから機械油を出して、フリーズしたおじいさんの鼻の穴にプシュっと差した。
おじいさんはやおら動き出し「これ、やめるよ。それで足りるかな」とトイレットペーパーを指さした。
無事に支払いを終えたおじいさん、「さっきはサンキューな」と、ポケットの中から機械油を取り出して、警備員のおじいさんの耳の穴にプシュっと差した。

2017年11月28日火曜日

十一月二十八日「お父さん」

夕方の駅前通り、「お父さん」と大きな声がした。私の見える範囲だけで、四人の男の人が一斉に振り返った。そして、また歩き出した。
今振り返った人たちは、みんな誰かの父なのだな。
ふと、「お父さん」と呼んだ人はどんな人なのか気になった。呼ばれた「お父さん」がどんな人なのか、も。今更だけれど、私も振り返ってみた。
ほんの一瞬で、辺りはだいぶ暗くなったようだ。後ろを歩く人々の顔や恰好はよく見えなかった。まあ、いいや、早く帰ろう。宵闇の駅前通りを右に曲がった。

2017年11月19日日曜日

十一月十九日 なぜ誰も歩かないのか

いつものように自宅を出ると、通行人が皆、自転車に乗っていて、歩いている人がほかにいないことに気が付いた。
老若男女の自転車に追い越され、なんだか居心地が悪い。家に戻って自転車に乗って出てくる、という技は使えない。なぜなら自転車を持っていないから。
大きな通りに出れば、歩行者もいるだろうと思っていたけれど、残念ながら当てが外れた。誰もが自転車に乗っていて、誰も歩いていない。
いつもの時間にいつもの道を歩いているだけなのに、不安に駆られて走り出す。徒競走は万年ビリだから、走ったって自転車のスピードにはとても追いつけないのだが、そうせずにはいられなかった。
ところがどっこい、自転車をどんどん追い抜いて、追い抜いて、追い抜いて、いつのまにやら私は知らない田んぼのあぜ道にひとり。

2017年11月16日木曜日

十一月十六日 泥棒

昼寝をしていると、ドアが開く音を聞いたような気がした。いま、家には自分ひとりしか居ないはずだった。
泥棒だったらどうしようか。
揺れる意識はそれ以上の思考にはならず、しばらく記帳していない通帳を持って銀行に行くと銀行員が誰もいない、という夢を見た。泥棒からの連想にしては、手が込んでいる。
今度はなんだか身体が重くて意識がはっきりしてきた。いよいよ目が覚めて重たい腹の上を探るとフワフワなのにやたら重量のあるボールが乗っかっていた。ボールというより毛玉。
これがドアを開けて入ってきた泥棒か……。何を盗んだのかと部屋を見回すと、いや、泥棒なら盗んだら逃げるはずで、ではこれは何だ? 
と思ったら、コロコロと毛玉は転がっていってしまった。

2017年11月14日火曜日

森の奥深くにある湖の話だ。
その湖は冬になると必ず鏡のように凍ってしまう。月が二つあるのではと思うほどにくっきりと映る。

その凍った湖へ、どこからともなく少年がやってくる。これも毎年のことだ。

少年は滑り、踊る。音楽を寄せ付けないほど静かな森の夜だけれど、音楽が聞こえてきそうな氷上のダンス。

毎夜やってきては、踊り、明け方にはどこかへ帰っていく。けれどもその冬一番寒い夜に、少年は凍ってしまうのだ。毎年のことだ。

氷になった少年は、春になると跡形もなく消えてしまう。湖底を捜索しても、見当たらない。これも毎年のことだ。

湖底を捜索するのは、必ず少年の姉だ。彼女はまだ冷たい湖に裸になって飛び込む。だが、弟の髪の毛一本見つけることは叶わない。

陸に上がった姉が何一つ残さずに消えてしまった弟を思って涙を流す。これも毎年のこと。そのせいで、この湖は少しだけ塩辛い。


2017年10月29日日曜日

十月二十八日 ショールーム

地下鉄の駅を出て、傘を開く。目的のショールームへの地図を確認したものの、自分の向いている方向がわからない。少し広い通りまで出て確認しようと歩き出したら、そこにあった。
広げたばかりの傘を畳み、ショールームに入った。八畳ほどだろうか、小さなショールームだ。
ここは、財布と巻尺のショールームである。
機能的な財布、高価な財布、大きな財布、小さな財布。
長い巻尺、短い巻尺、革のケース入り巻尺、ステンレスの巻尺。
財布をひとつ手にして「コインの出し入れの具合を確認したいのです」とスタッフに言うと、真鍮の小皿を差し出してくれた。そこには小さな小さな巻尺がザラザラと入っていた。

2017年10月22日日曜日

ポイントカード

「お客様の笑顔がポイントです」
 カードを差し出す店員は崩れを許さぬ化粧と隙のない笑みでそう言った。
 受け取ったそれは、大きさはまさしくカードだったが、スタンプを押す欄もなければ、機械に通すための磁気テープもないし、ICチップもない。
「えっと、これは、いつまで有効ですか?」
 他に訊くべきことがあるような気もするが。
「お客様が笑顔を失った時にこのカードは自動的に失効いたします」
 ポイントカードを覗き込むと、見慣れた顔が映っていた。我ながら「無表情だ」と思う。裏面には、この施設のロゴマークが入っている。試しに、ポイントカード向かって笑いかけた。表情筋に鋭い痛みが走る。
「ポーン!」
 軽やかな音が鳴り、ポイントが貯まったことを知らせる。ああ、一応「笑顔」として認識されたらしい。少しホッとした。
「一日に何回でもお使いいただけますよ」
 店員は計算された完全な微笑みで言う。私が作り笑顔さえ困難になる日は、そう遠くないと見透かしているに違いない。
 その時が来るまで、笑ってみせよう。この小さな鏡に向かって。

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「もうすぐオトナの超短編」たなかなつみ選 佳作受賞
兼題部門(テーマ超短編「期間限定」)

2017年10月11日水曜日

十月十一日 御用聞き

孫が生まれた人と生れそうな人に「注射器がご入用でしたら、いつでもどうぞ!」と私は言った。
結局、誰も注射器を必要としなかったし、生まれそうな孫はまだ生まれなかった。
念のために言っておくと、注射器で蓮根の穴に糊を注入するのである。

2017年9月27日水曜日

九月二十七日 黒板と白墨

白墨を持つのなんて、何十年ぶりだろうか? 黒板に白墨が擦れる感触を味わう余裕もなく、「字が小さくならないように」ということばかり気にして、覇気のない白い文字を書き連ねる。「漁師芸術の採光」という美術展のお知らせ。会期は明後日から二週間。招待券はない。

2017年9月26日火曜日

九月二十六日 詩集

一度読んで、そっと閉じた詩集があった。カタツムリが無音でしゃべる詩が延々とつづいた。
音のない詩なのにページを繰る音ばかりがだんだんと大きくなるので、それが爆音にならないうちにとそっと閉じたのだった。
その詩人の本をまた手にとった。9年ぶりだった。今度は子猫がしゃべる詩がつづく詩集で、無音ではなかった。ページを繰る音は、聞こえなかった。

2017年9月9日土曜日

九月九日 チャチャチャ

見知らぬ学生街を散歩した。かわいらしいお菓子屋を覗くとお茶が出た。甘くて濃いミルクティーだった。
素敵な雑貨屋にいくと、お茶が出た。香り高い煎茶だった。飯碗を買った。
紅茶屋を覗いたら、もちろん茶が出た。秋の香りのする紅茶だった。
さて、そろそろ帰りましょう。と駅の改札を通ったら、駅長が茶を振る舞っていた。ホームで茶会が始まった。

2017年8月29日火曜日

八月二十九日 狂速度

今日の駅のエスカレーターは妙に速くないか? いつもと違うリズムで転びそうになる。
たどり着いた先の百貨店、今度のエスカレーターは超低速だった。苛苛しながら6階の文具売り場へ向かう。

だいぶ早いけれど、来年の手帳など見てから、超低速エスカレーターに乗って、地下の食料品店に行く。お弁当を持って、レジに並ぶとレジスターは超高速になっていて、レジ係が目を回して倒れていた。

みんな飛翔体のせい。

2017年8月20日日曜日

しっぽ

 飼い猫の姿が見えない。たぶんクローゼットの中で丸まって寝ているんだろう。俺の脱ぎ捨てたパジャマの上でぬくぬくとしているに違いない。
 クローゼットの戸を猫が自力で開けるようになったのは、生後八か月くらいのときで、俺は小学4年だった。
 それから十六年。服はいつも毛だらけだけれど構いもせず、猫は自由にクローゼットに出入りしている。近頃は、年のせいか暗くて静かなクローゼットを特に好んで寝床にしているようだ。
 老猫は、案の定クローゼットの中に……いたけれど、いなかっ た。しっぽはいたけれど、しっぽしかいなかった。
 しっぽに向かって「おーい、本体どこ行った?」と訊いてみると、しっぽは気忙しそうにパタパタと動いた。
 しばらくしっぽの様子を注視していたが、動くしっぽを見ていると催眠術にでも掛ったかのよ、う、にねむ……
 目を覚ますと、猫がこちらをじっと見ていた。
「どこに行ってたんだよ、しっぽだけ置いて! 一緒に連れていってやらなきゃ、かわいそうじゃないか」
 我ながら頓珍漢な説教を猫にする。
「よっこらしょ」とでも言いそうな様子で立ち上がった猫の下に、小学4年の夏休みに失くした自転車の鍵があるのは、何故なんだ?

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「もうすぐオトナの超短編」松本楽志選
兼題部門(テーマ超短編「此処と此処ではない何処か」)投稿作

2017年8月8日火曜日

ショートケーキ

 もう何年も、美しいままのショートケーキを見ていない。
 甘くなめらかな生クリーム。艶やかで真っ赤な苺。私は小さいころからショートケーキひとすじだった。たまにチョコレートケーキを選ぼうものなら「ああ、やっぱりショートケーキにすればよかった」と後悔する。
 ショートケーキ狂いの妻の機嫌を取るため、なのかどうかは知らないけれど、夫はせっせとショートケーキを買って帰ってくる。
 満面の笑みで夫が掲げる箱を見て、私はそっと溜息をつく。その箱は、既にひしゃげている。毎度毎度、どこをどうやって持ち運べば、こんな有様になるのだろう。
 私はとびきり丁寧に紅茶を淹れ、潰れたケーキの箱を開ける。もはや原型を留めていないショートケ ーキ。苺の汁で汚されたクリームは箱の壁面に飛び散り、フワフワのはずのスポンジ生地は崩壊し、固まっている。
 ケーキを皿に出すことも諦め、私と夫は顔を寄せ合い、夢中でケーキの残骸をほじくり、貪る。「おいしいね」と夫を見つめると、「また買ってくるよ」と耳元で囁かれた。


ガリレオ・ホラー超短編 大賞受賞 →選考結果と評
まんがの図書館ガリレオ発行 月刊ガリレオ新聞2017年8月号掲載

2017年8月7日月曜日

木星から来た不死鳥

夜の川面に金色の火花が広がる。不死鳥が舞い降りようとしているのだ。羽ばたきに合わせて火花が雨のように降り注ぎ、辺りが明るくなる。

不死鳥はついさっきまで、木星にいた。大きな木星の周りを優雅に飛ぶのは、不死鳥にとっても気分のよいことだった。

木星を巡ってからこの川に来るのが、地球の暦でもう十二年も続いている。毎年夏になるとどこからともなく呼ばれる気がする。川面に舞い降り、羽繕いなどして、また飛び立つ。それを川岸で見る大勢の人々が時に涙を流して喜ぶのだ。

不死鳥には、どうしてそんなに人々が喜ぶのか、理解できない。だが、木星の周りを飛ぶのとは違った心地よさを覚える。また次の夏、ここに来るのも悪くない。

2017年7月23日日曜日

細く、冷たく、赤い

気が付くと、夜道を誰かと手をつないで歩いている。真夜中の住宅街。周囲に歩く人の気配はない。
初めて手をつないだのは、酔っ払った帰り道だった。左手に夜食用のカップ麺と水の入ったレジ袋。空いた右手を、ふいにきゅっと握られた。少しひんやりした細い手の感触。人恋しさもあって、握り返して、そのまま歩いた。隣は見なかったし、手も見なかった。そんなことは、どうでもよかった。

それから、夜11時を過ぎるころに歩くと、必ず手をつなぐようになった。回数を重ねるうちに、少し冷静になってきたようで、その手の存在が気になってきた。隣に人がいるわけではないことは、とっくにわかっていた。
ぐっと握って、手を目の前まで持ってくる。
細くて白い女の手。長く伸ばした爪は鋭く整えられ、夜道でもわかるほどに艶やかな真っ赤なネイルに彩られていた。

2017年6月9日金曜日

六月九日 たんぽぽがシャボン玉

バスで隣り合ったおばあさんと話し込む。おばあさんは、お連れ合いの介護で大変だそうだ。
私は頭に季節外れのたんぽぽが咲いて大変なのだとこぼした。
すると、おばあさんは私の頭を撫でて、あっという間にたんぽぽを綿毛にして、「ふう~」と吹き飛ばしてしまった。
バスの車内は綿毛だらけ……にはならず、シャボン玉だらけになった。
私がバスを降りるとき、おばあさんは「気を付けていってらっしゃい」と何事もなかったように手を振ってくれた。頭にたんぽぽが咲くのも悪くない。

2017年5月24日水曜日

五月二十四日 魔女カラー

魔女は会うと色水をくれる。「今日もいいカラーになったわ」と言って、「どう? 持っていく?」と訊くので「よろこんで」とこたえる。魔女は七割が白い髪をふわりと靡かせて、小瓶に色水を詰めてくれる。
前回は、紫だった。「パープウ」と魔女は言った。
今日は黄土色だった。魔女は色の名を言わなかった。

2017年5月10日水曜日

五月十日 とかげ週間

今週に入ってから既にニ度とかげを見た。とかげなんかしばらく見たことなかったのに、数日で二度も遭遇するとは何事だろう。
チョロチョロと動くとかげを目で追いかけるといつも不思議な心持ちになる。とかげの大きさと動きと時間は、噛み合っているように思えない。どうにもチグハグに見えて仕方ないのだ。
今週はすでにそんな気分に二度も陥っているわけで、とかげは一体何を訴えているのだろうかと考え始めたが、何かを訴えているはずもないことに気が付いて、またチグハグな気持ちになる。
今日は水曜日、今週はあと何回とかげに遭うのだろう。

2017年5月8日月曜日

午睡

ぼくが伸びをする。ねこが伸びをする。真似しないで。
ぼくが欠伸をする。ねこも欠伸をする。また真似した。
ねこがゴロゴロいう。ぼくはゴロゴロいえない。ちぇ。
ねこが昼寝をする。ぼくも昼寝をしよう。

2017年5月2日火曜日

五月二日 冷蔵庫の次元

 明日から旅に出るので、冷蔵庫をできるだけ空っぽにしなければならない。ネギ、トマト、焼きそば……いろいろと残っていたはずである。
 ところが、開いた冷蔵庫は何も入っていなかった。調味料も飲み物もなくなっていた。
野菜室も、冷凍庫も。ただ冷気が出てくるだけである。私は、開けっ放しの冷蔵庫を前に、しばらく動けずにいた。
 すると、冷蔵庫はピーピーとやかましい音を立て始めた。扉が開けっ放しになって一分経過すると警告音を発するのである。我に返った私は扉を閉め、そして深呼吸してもう一度開ける。
 見慣れた我が家の冷蔵庫……のような気はする。 調味料も、ネギもトマトもある。が、何かがおかしい。
 うんうん唸っていると、また冷蔵庫はピーピー言い出した。扉を閉める。開ける。空っぽ。閉める。開ける。何かが違う。閉める。
 結局、冷蔵庫と神経衰弱を四回やってやっとひとつ判ったことは、 少しずつトマトが大きくなっているということだった。もう少し続けよう。

2017年4月24日月曜日

ポケットの中で魔法をかけて

エプロンのポケットに小さなボールが三つ。
ボールはフェルトで出来ていて、ひとつは青くて、ひとつは緑で、ひとつは白。
青いのと緑のは、羊製だけれども、白いのは猫製だ。
猫製の白いボールに魔法をかける。たいした魔法ではない。
よく握って、形を整えて、「ちちんぷいぷい」。
「ちちんぷいぷい」は別に言わなくてもいい。言ったほうが魔法っぽいというだけ。
ただし、これはポケットの中で行わなければならない。見てはだめ。見せてもだめ。
うまく魔法がかかったら、忽ち猫が飛んでくる。そう、空を飛んでくる。
同じ魔法を、青いのと緑のにかけると大変だ。羊が海を泳いできたり、森を運んできたりするから。

2017年4月3日月曜日

四月三日 銀座にアップルパイを食べに行った話

気になる画廊が二つあったので、銀座に出かけた。
一つ目の画廊は展示物が三つしかなくて、二つ目の画廊は、照明が切れていて何も見えなかった。
なんだか腑に落ちないが、どうしようもない。空腹を覚えたので、木村家の上の喫茶室でアップルパイを食べた。それなりにおいしいアップルパイだった。
アップルパイを食べに銀座に行ったのだ、と思うことにする。往復で千円掛ったけれど。

2017年3月17日金曜日

かわき、ざわめき、まがまがし

 手押しポンプをいくら押しても、耳障りな金属の軋みが聞こえるだけだ。
「もう、その井戸は枯れているよ」と、兄が言う。もう三十回くらい言っている。
「わかってるよ」と、これも三十回くらい答えている。
 兄の口調は一回目も三十回目ものんびりしたものだったけれど、私は自分の声がだんだんと刺々しくなっていることに気が付いている。
 日が沈んでも、私は手押しポンプを押し続けていた。もちろん水は一滴も出ない。
 けれどポンプを押したときの軋んだ音は、少し、ほんの少しずつ変わってきている。確かに。痛みに耐えるような、大勢の人たちの声。
「もう、その井戸は枯れているよ」兄の声が、ほんの少し震え始める。
「わかっているよ」私は声が弾むのを抑えられない。


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500文字の心臓 第154回タイトル競作 
〇10 △1 正選王


実に7年ぶりの投稿、10年ぶり二回目の正選王

2017年3月15日水曜日

三月十五日 時計

朝早く起きて、何者かに飯を食わせると、また布団に戻る。
何者かが毛むくじゃらになって顔に乗るので、こそばゆい。何度も目を覚ます。まだ7時だ。今日はどこに行く用事もない。おまけに寒い。好きなだけ寝ていてよいのだ。まだ7時だ。まだ7時だ。まだ7時だ……?
ここでようやく時計が狂っていることを疑う。
腕時計を見る。スマートフォンを見る。壁掛け時計を見る。
全部違う時刻の顔をして澄ましている。

2017年3月11日土曜日

三月十一日 昼寝

どうにも具合が悪いのは春のせいとして、暑苦しく寝苦しいのは何事だろう。
首元になにか巻かれている。マフラーにしては重たくて、暖かすぎる。
振り払おうとしたが、重たくて振り払えなかった。
思い切って起き上がったら、なんだかウニャウニャ言っている毛玉が落ちていた。

2017年3月4日土曜日

三月四日 ぐるり

新しくできたという雑貨屋を探しに行った。今日は定休日だということは承知していたが、どんな店か偵察してみようという魂胆である。雑貨屋には怪しい店や妖しい店があるからに。

「森林薬局」のところを曲がって、裏道へ入る。そうチラシに書いてあったので、「森林薬局」のところを曲がって、裏道へ入る。裏道を入ったところに「いがらし歯科医院」があった。覚えやすい。ここを目印としよう。
「いがらし歯科医院」のところを通り過ぎると、また「森林薬局」があった。ここには「しらがい歯科医院」がある。「白貝」珍しい名前だ。裏道へ入る。

キョロキョロ見回しながら歩くが、雑貨屋らしきものはない。ただの裏道だ。そのまま裏道を歩くと大通りに出た。左を向くと「森林薬局」。

これは、妖しいほうの雑貨屋のようだ。

2017年2月25日土曜日

二月二十五日 行列

ハンバーグ定食を食べるつもりがロースカツ定食になったのは、洋食屋に大行列ができていたからだ。
洋食屋をあっさり諦めて(腹が減って、その場に座り込みたくなるほどだったから)、向かい和定食屋に駆け込んだ。
和定食屋に客は誰もおらず、店の親父はブラウン管(ビデオデッキ付きの!)のテレビでニュースを見ていた。私は座るや否や「ロースカツ定食!」と言い、親父は奥に向かって「ロース一丁」と言って、カツを揚げ始める。揚げ油の匂いと音で、腹の虫が10匹増えた。

まもなく、副菜が山ほど付いたロースカツ定食がやってきた。
無我夢中で食べ、先ほどの倒れ込むような空腹とは打って変わって、寝転びたくなるような満腹の身体を抱えて勘定を済ますと、いつの間にか店内は客で一杯で、店の外にまで並んでいた。
向かいの洋食屋にはもう行列はなくなっていて、窓から中を覗うと、客はひとりもいないのだった。

2017年2月18日土曜日

二月十八日 クドーさんちの黒猫

クドーさんちには出窓があって、ときどき黒猫が鎮座ましましている。
大きくて、最初に見たときは置物かと思うほどジッとしていた。

久々にお目に掛かる。こちらに気が付かなかったようで、立ち止まってじっと見ていたら、「ハッ」とこちらを見返した。
そして、クドーさんちの黒猫は、大あくびをして、青い煙をもくもくと吐いたのだ。

私は驚いて後退る。窓越しなのだから、青い煙を吸い込む心配はなさそうだったけれど。
気を落ち着けて、もう一度、クドーさんちの出窓を見たら、今度は大きな白猫がいた。私の着ていた黒いコートも真っ白になっていた。

2017年2月12日日曜日

二月十二日 黒い王

昨夜、黒い王が好んだという酒を飲んだ。
黒くて、ローストした香りの中に、甘い果実を感ずる。ねっとりとした酒であった。アルコール度数は極めて高い。 わずかしか飲まなかったにも関わらず、浮遊感に取り込まれる。

おかげで、今日は一日、黒い王の幻影とともにあった。黒い王は一切の光を弾かない王冠をしていることがわかった。私はその闇のような王冠に触れてみたくて、何度も手を伸ばすのだが、そのたびにするりと王は消えてしまう。

日が暮れると、黒い王は本当に消えた。

2017年1月30日月曜日

一月三十日 コーヒーショップの朝

朝から読書する場所を求めてコーヒーショップに入った。頼んだのはハーブティーだけれど、ここはコーヒーショップだ。

この時間、読書するために来る人は多いようで、先客の多くも文庫本を広げていた。私も同じようにする。

一組だけ、おしゃべりをしている客がいた。そのうちの一人の声がやけに店内に響き、本を読む客たちは、少し迷惑そうである。

その人の声は、だんだん大きくなり、なにやら機械的になり、とうとう、ひび割れるほど大きくなった。

極力、その人のことを見ないようにしていたが、堪らなくなり、顔を向けた。拡声器だった。

客足が途絶えた隙に、店員が拡声器に近づく。「恐れ入りますが、お客さま」

店員が、プチン。と拡声器のスイッチを切った。店内に静けさが戻る。本をめくる音がする。

2017年1月27日金曜日

燃え尽き症候群

ベスビアスの老人は、ウィトルウィウス建築の研究家。
飲酒の一滴から引火して、蔵書が全焼。
なんてヘベレケなベスビアスの老人。

There was an Old Man of Vesuvius,
Who studied the works of Vitruvius;
When the flames burnt his book,
To drinking he took,
That morbid Old Man of Vesuvius.

エドワード・リア『ナンセンスの絵本』ちくま文庫

2017年1月17日火曜日

一月十七日 顔を洗うとき

近頃、洗面所に立ち顔を洗い始めると、背中に何者かが乗るのである。
生憎、私は近視が強く、メガネを外した状態では鏡を見ても何者かの姿を確認できない。
タオルを取ろうとすると、すっと背中が軽くなる。

2017年1月14日土曜日

一月十四日 巨大ケサランパサラン?

腹のあたりが暖かい。と思ったら、セーターの腹がやたらふくらんでいる。
襟元から覗いてみると、なにやら白くて丸い、大きな毛玉が入っていた。
巨大なケサランパサランかもしれない。寝息を立てているのが腑に落ちないが。

2017年1月13日金曜日

見たら駄目

デリーダウンデリーは、子どもが大好き、ほろ酔いおじさん。
おじさんが書いた法螺話。
みんなで笑って千鳥足。
デリーダウンデリーは出鱈目でれすけ。

There was an Old Derry down Derry,
who loved to see little folks merry;
So he made them a Book,
and with laughter they shook

At the fun of that Derry down Derry.


エドワード・リア『ナンセンスの絵本』ちくま文庫

Derry down Derryはリアの筆名?だったらしい

2017年1月8日日曜日

夢 骨董店の怖ろしい人

寺の境内にある骨董店にて、書画骨董の修復の講座が開かれている。
私は、知人に連れられてその骨董店に立ち寄り、器皿を物色していたが、いつの間にか修復講座に参加することになっていた。

同行した家族は若い頃にこの講座の講師たちに習ったことがあるらしい。「阪さんは、とっつきにくくて難しそうな人だけれど、慣れると付き合いやすい人。伴野さんはいきなり怒鳴り散らしたりするからどうにも苦手で……」と言いながら、旧知の人を見つけて部屋を出て行ってしまった。

私はすでに受講者で鮨詰め状態の和室から出ることができなくなっていた。受講者に和紙と筆が配られる。満員電車なみに混雑した部屋で、この和紙をどうするというのだろうか。

そうこうすると講師がやってきた。「伴野」という講師は、家族が言っていたように、やたら大声で話し、すぐに怒鳴る。まだ何も始まっていないのに。

なんの説明もなく「和紙をびしょびしょに濡らせ、ただし皺は一切許さない」と指示された。

2017年1月5日木曜日

一月五日 午睡

午睡中、耳に息を吹きかけられた。
何者かの思念が言葉となり文字となり、私の脳内で映像化されたが、生憎、私と何者かは種族が異なるようで、その文字を理解することはできなかった。

続いて、何者かは私の右頬を熱心に舐め始めた。痛い。まだ眠っていたかったが、ここで目を開けた。

何者かによる攻撃は、今日も意味が分からない。

2017年1月3日火曜日

一月三日 父ちゃんと黒い自動車

父の新しい車はピカピカツヤツヤの黒で、なかなか恰好がよい。さまざまハイテクな安全装置が付いているようで、頼もしい。
でも、ちょっと変わっているところもある。バックするときに情けない電子音をポヒポヒ鳴らしながら、車体が伸び縮みするのである。
ポヒーポヒーポヒーと言いながら、軟体動物のような動きをする。おかげで父は車庫入れにえらく苦労するようになった。
今日は狭い路地沿いの、小さな家の、小さな駐車スペースに斜めにバックしながら車を入れるという難題に出くわしたが、父は近年稀にみる集中力と執念で、グニグニする車を六度目の挑戦で見事に駐車させたので、そろそろ車も手懐くことだろう。

2017年1月2日月曜日

一月二日 通学路

かつて通った町へ行ってみた。
この町に通っていたその頃は短いスカートを一年中穿いていたけれど、もうそのスカートを捨てたのかどうかも覚えていないくらい昔の話だ。

学校から駅へ向かう道を歩いてみる。痴漢注意の看板、一か所だけ欠けたブロック塀、あの頃のままだ。
かつて通った駅ビルも、ほとんど変わっていなかった。あの頃と同じテナントが入り、あの頃の流行りの服が売っていた。
時計を見て気が付いた。うるう秒を刻み逃したのだ、この町は。

2017年1月1日日曜日

一月一日 おみくじ

初詣に三十分も並んだのは、ずいぶん久しぶりである。暖かい正月だったから、それほど苦ではなかったが、私の前はタヌキの家族で、後はキツネの家族だったので、化かされやしないかと少々ハラハラしながらの初詣であった。

おみくじを引く。
「大吉」
幸先がよい。気分よくおみくじを結びつけていると、声を掛けられた。

先ほどのタヌキの家族である。「おみくじの字が難しい、読んでくれ」というので、音読する。
「末吉~!」
「油断せず~努力すれば望み叶う~」
私の声は思いがけず高らかに一月一日の神社に響き渡った。そんなに大きな声で読み上げているつもりではないのに、止まらない。
「待人~遅いが来る~」
四つの毛むくじゃらに見上げられて悪い気はしないのが不思議である。