2013年4月29日月曜日

夜空の破れ目


かたつむりの殻に落ちた青紫の小さな小さな水滴は、ゆっくりぐるりと殻の渦巻きを流れ落ち、紫陽花の蕾に吸い込まれた。

夜空から青紫色のお裾分け、ほんの一滴。



2013年4月26日金曜日

エジプト土産

 パピルスの巻物が届いた。
 中には「エジプト土産です」と母の字で書いてある。一体いつエジプトに行ってきたのだろう、そんな話は聞いていない。
 電話して尋ねてみると「エジプトって、あの、テトラポットの?」と、頓珍漢なことを言っている。ピラミッドも言えない人がパピルスを知っているほうが可怪しい。
 じゃあ、このパピルスは誰が送りつけたものだろうか。気色悪く思いながら開くと、中には日本語で、「笠地蔵」の話が書いてあるのだった。
 娘に読んで聞かせると、大変に喜んだ。次の晩は「舌切雀」になっていて、これも喜んで聞いていた。エジプト土産には謎が多い。


2013年4月22日月曜日

お迎え

僅かながらの小銭を握りしめて出て行ったままの私をそろそろ迎えに行かなくちゃならないけれど、七歳の私が何が欲しかったのか、もう思い出せない。今なら、買ってあげられるはずなのに。



2013年4月20日土曜日

落ちている赤ん坊を拾う話

自分が拾われた子供だと知ったのは、18歳の時だった。
高校を卒業して、家を出ることにしたとき、「そうそう」と親父は話し始めた。
「うちは、ステゴの家系なのだ」
親父は自慢そうに言った。「ステゴ」が「捨て子」であることに気づくまで、少し間が掛かった。
「俺も、おまえのじいさんも、ひいじいさんも、もちろんおまえも、捨て子だ。先祖代々由緒正しき捨て子の家系である」
自分が捨て子であることは、さほどショックではなかったが、自分の先祖が皆捨て子であることには流石に驚いた。
「おそらく」
親父は険しい顔をした。「おまえもそのうちに赤ん坊を拾うことになる」
そうして、拾い子に関する役所的な手続きやら、育て方やら、今オレにしているように捨て子の家系であることを明かす時期について、親父は親父らしからぬ丁寧さで講義をしたのだった。
道端に赤ん坊が落ちていることなんて、そう滅多にないだろうとタカをくくっていたけれど、「家系」といわれてしまうと気にはなる。
そして今朝、出勤しようと玄関の扉を開けた所に、赤ん坊が落ちていたいたのだ。
「やあ、息子……いらっしゃい」と、おれは呟いた。


2013年4月14日日曜日

無題

ターミナル駅の真ん中で、父とはぐれた。


大きな手を離したのは、ほんの一瞬だったのに。


「お父さん」と呟くとスーツ姿の男の人が一斉に立ち止まってこちらを見た。


背の高い父の顔をよく思い出せないので、全員と握手することにした。



4月14日ついのべの日 お題


無題

その古書店に並んだ本に題の付いた本は一冊もなかった。


「食べちゃうんですよ、紙魚が、タイトルだけ綺麗に」店主は笑った。


目についた鮮やかな赤い本を買って帰り、家で飼っている紙魚に食わせようと与えたら、無題の本は不味いらしい。すぐに吐き出してしまった。



4月14日ついのべの日 お題



2013年4月9日火曜日

蟻の行列

蟻の行列踏み潰したのはわざとではなかった。
「こら!! ありんこ踏みつけおって!」
叱られ声に驚き当たりを見回したが、祖父の姿はない。
足元を見やると混乱する蟻の群れに祖父がいた。
「ごめんなさい、わざとじゃなかったんです」
頭を下げて謝ると、蟻は軌道を立て直して再び行進を始めた。
祖父は三年前に他界している。


2013年4月7日日曜日

辞世

「かたつむりが月を一周するのを見届けに行く」と旅だった息子は四十年帰らない。



2013年4月6日土曜日

夫婦瘡

触れ合う度に、夫婦は少しづつ傷つけ合い、傷は瘡蓋となる。


傷付け合っていることもそこに瘡蓋ができることも二人は知らないが、剥がれ落ちた瘡蓋は、例えば押入れの隅に、例えば水洗便所のタンクに、ポロリと落ちる。


夫が無意識に股間を掻いた時には、家のどこかで夫婦瘡が剥がれた証だ。


夫婦の仲は悪くない。いや、むしろ良好だといえよう。それでも、だからこそ、夫婦瘡は増えていく。



2013年4月3日水曜日

特等席

 窓際の席に一つ、いつもカフェオレが置いてある。誰もその席には座らない。
 その店の常連になるにつれて、窓際のカフェオレは見慣れた景色になってしまったけれど、その代わり気がついたこともあった。
カフェオレが少しずつ、少しずつ、減っていくこと。
 透明人間がいるのかしら。それとも、幽霊……?
 そんな話をこの店で顔見知りになった直子さんにした。直子さんはいつも窓際のカフェオレの左隣の席でコーヒーを飲んでいる。
私の祖母くらいの年格好だけれど、気さくな人で、話はよく合う。
「幽霊といえば、幽霊よねえ、あなたは」
 ふふふ、と直子さんがいたずらっぽく笑って、カフェオレの前に自分の老眼鏡をかざした。
 眼鏡の向こうで、小さなおじいさんが「やあ!」と手を振った。
 マグカップの縁に腰掛けて、小さなマグカップでカフェオレを掬って飲んでいるのだった。
「ここは、私の連れ合いの特等席だったのよ。相変わらずカフェオレばっかり飲んでるの、困ったおじいさんよね」