2008年7月22日火曜日

ローズクオーツ

 薔薇の香りに誘われたからといって、どうしてこんなところに迷いこんでしまったのか。途中で引き返せばよかったものを。そもそも、こんなところに林があっただろうか。思い出そうとしてみるが、塩辛い唾液ばかりが溢れてきてどうにもならない。
 どこかの庭で薔薇が咲いているのだろう、そう思いながら歩いていたら、いつのまにか鬱蒼とした林の中にいたのだった。そのまま香りの源を求めて歩いていると突然木々が開け、ボコボコと泡立つ沼が現れた。泡が弾けると薔薇の香りが濃くなる。ここから香るのだと合点して帰ろうとしたが、急に辺りが暗くなって来た道がわからなくなったのだ。
 繰り返し記憶を辿ってみるが駅前の商店街を抜けたあたりから、まるで思い出せない。薔薇の香りだけを頼りに、ただただ彷徨い歩いていたというのか。
 さっきから女の呻き声のようなものが聞こえる。だんだん近づいているように思う。蹲って日が出るのを待つしかない。
 ふと時計を見ると、三本の針が高速で回転していた。衝動的に腕から外して、沼に投げ捨てる。その途端、時計を外した左手首がチクリとした。手首を掴まれている。びっしりと薔薇が身体に巻きついた女。ああ、この女が呻き声の主だ。
 「痛い」と女が言う。身体から薔薇を外して下さいと言う。しかし、薄暗い中で棘だらけの薔薇を身体から剥がすのは困難に思えた。それに、女にこれ以上触れたくない。今すぐに、手首を離して欲しい。
「ならば、薔薇を枯らすのがよかろう」
 沼を指してやった。
 女は沼に沈む。あれほど泡を立てていた沼は忽ち沈黙し、辺りも明るなった。もと来た道を見つけ、歩き始める。
 女に握られた手首には無数の棘が刺さり、とうとうと溢れ出る血から薔薇がひどく匂う。

第六回ビーケーワン怪談大賞 未投稿作品