2006年12月31日日曜日

新しい年

「古い年に、乾杯」
喫茶店の片隅で私たちはこっそりとコーヒーカップを当てて乾杯した。
私たちに新しい年は祝えない。古い年ばかりが愛おしい。
良すぎる記憶力に「思い出を美化する」というプログラムを組み込んだ初めての一年、人間の恋人たちを真似しながら二人で必死に思い出を作った。
塩水は機械に悪いのに、無理して海水浴にも行った。
これから一年はその思い出を語り合ううちに過ぎてしまうだろう。いや、過ぎることになっている。
私は合金製の小指を彼に絡めながら、ちょうど一年前の思い出の出力をはじめる。

木枯らし

一足早く美術室に入ると、今日のヌードモデルがコーヒーを飲んでいた。
皆が揃うにはあと20分くらいはかかるのに、もうすべて服を脱いで。
サッカーをしているグラウンドを窓際から眺めながら。
「あ、あの……寒くないですか」
そう声を掛けた私の息は白かった。
モデルは大丈夫、という顔をしてみせたけれど
私はすぐに石油ストーブを付けた。
身体を隠すことも見せびらかすこともなく、おそらくは服を着ている時と同じような態度で、モデルはコーヒーを飲んでいた。
それがかえって不自然で、私はドギマギした。
私の動悸を見抜いたかのようにモデルは初めて口を開く。
「インスタントコーヒーだけどね」
そんなの関係ないよ。私は視線を落とす。落とした先にちょうど陰毛があって私はますます動揺する。

デッサンが始まると、モデルは見事にマネキンのように動かなくなった。
ぴくりともしないあの手でカップをもち、乾いたあの唇でコーヒーを飲んでいたんだ。
細かい所ばかり気になるから、デッサンはちっともはかどらない。

2006年12月29日金曜日

いつもと違う足音

電車の床はコーヒーで水浸しだった。
乗るのを躊躇ったが、どうやら別の車両でも状況は同じらしい。あきらめて乗り込む。車内は空いている。
もはや汚水のような風情で床に撒き散らされているが、香りはしっかりとコーヒーを主張していた。
ほかの乗客たちはコーヒーで濡れた床に頓着していないようだ。
革靴もピンヒールも迷いなくコーヒーの中を闊歩している。
私のように抜き足差し足で歩いている者は見当たらない。
ストッキングのふくらはぎにコーヒーをぴちゃぴちゃと跳ね飛ばしながら歩く女がいて、やけに卑猥だった。

夢みたいな注射

風邪をひいて病院へ行くと、いつもの老医師がいなかった。
「先生は?」
「マゴと遊びに行った」
とウサギがこたえる。
「じゃあ、なぜ休診にしないの?」
ウサギはニヤリとして
「私が診察を任されているからだ」
と宣った。
ウサギは世間話をしながらコーヒーを沸かし、それを注射器に詰めた。
私は背筋が凍りついた。
「いや!コーヒーなんか注射したら!やめて!だれか助けて」
私は叫び暴れたが、ウサギは素早く馴れた手つきで注射針を私の二の腕に挿した。

それからどうやって家に帰ったのか、まるで覚えていない。
気が付くと、湯舟で鼻歌を歌っていた。風邪はすっかり良くなっていた。
ウサギにコーヒーを注射されたのは、夢だったのだろうか。
けれども五日経つ今も二の腕にはぷっくりと注射の跡が残っているから、夢ではなかったみたい。でも、その赤い注射の跡を指先で撫でると、なぜか夢心地になるからやっぱり。

2006年12月28日木曜日

コーヒーが降り出しそうな日

「もうすこしでコーヒーが降りそうなんだけどな」
と、土手に座り込んで少女は呟いた。
確かにコーヒーのような焦茶色の雲が厚く空を覆っていた。
「もし本当にコーヒーが降ったら、どうするつもりなんだ?」
「浴びるの。髪を洗って、顔も洗って。身体中にコーヒーを浴びたい」
肩に付くか付かないかくらいの髪が揺れる。
「ここで、すっぽんぽんになるの?」
「誰も見ないよ」
僕が、見るよ。
「コーヒーを浴びたら、きっとコーヒーが飲めるようになる。そしたら大人だと思うの」
彼女の言う「大人」に「コーヒーを飲めること」以外のなにかが含まれているのか、僕にはわからなかった。
野萱草が咲いている。

2006年12月26日火曜日

かつてコーヒーでいっぱいの地球

世界地図に零れたコーヒーは、七つの海を茶色く覆った。
海がコーヒーになったから、コーヒー豆農家はたちまち仕事を失った。
コーヒー好きは島や沿岸部に街を作り、コーヒー嫌いは内陸へ移った。
だが次第に雨もコーヒーになり、内陸でもコーヒー以外の液体を得るのが難しくなった。山の井戸水からもコーヒーが、泉にもコーヒーが湧きはじめた。
でも、布きんを取ってきたから大丈夫。
世界地図は防水加工してあったから、海をすっかり覆ったけれど、染み込みはしなかったんだ。
零れたコーヒーはすべて世界地図から拭き取られ、海は塩水に戻った。
でも一度仕事を失ったコーヒー豆農家は戻らない。
翌日、コーヒーの存在は世界から消えた。

2006年12月23日土曜日

流星群の季節

流星のひとやすみのために、コーヒーをベランダに置いておいた。
早朝ベランダに出たら、ひとりの流星があわてふためいて飛んでいった。
ひとやすみのつもりが、すっかり寛いでいたらしい。

ほろ酔いの恋

僕はコーヒーを飲み干したことがない。
こんなにコーヒーが好きなのに、すぐに酔ってしまうのだ。
コーヒー酔っ払いになったぼくは、すぐ恋をする。
コーヒーを飲みながら一人で本を読んでいる女の人を見つめてしまう。
見つめているだけでは物足りなくて声をかけてしまう。
映画でも小説でも言わないような台詞を吐いて、手の甲にキスをしてしまう。
驚く彼女の視線を背中に感じながら、ふらつく足元を隠して出来るだけスマートにカフェを去る。
それがいつものパターン。
ぼくがコーヒーを飲み干したら、その時だれかを見つめたままだったら、それは本当の恋のはじまりかもしれない。

2006年12月21日木曜日

真夜中のプール

真夜中の散歩、コーヒーの香りに誘われて辿りついたのは、学校のプールだった。コーヒーのプールで男の子が泳いでいた。
幼い身体付きだったけれど、夜とコーヒーが彼を大人っぽく演出していた。
私はプールサイドで彼の泳ぎを眺めていた。
クロールを何百メートルか泳いだ後、彼は更衣室に消えた。
プールのコーヒーを掌に掬って飲んでみる。
極甘のコーヒーに、やはりまだ子供なのだと、少し安心した。

2006年12月20日水曜日

視線で味わう

アリスは沸騰したコーヒーを好む。
僕は毎朝コーヒーを入れると、アリスの分を取り分け小鍋でぐつぐつと沸かさなければならない。
コーヒーカップの中でなお、熱い泡を立てているコーヒーをアリスは硝子の眼玉で見つめる。
昼前に冷めたコーヒーにそっと口を付けると、コーヒーはなんの味も香りもない茶色い液体になっている。
僕はこうしてアリスの残したコーヒーに口付ける瞬間が一番興奮する。
たぶん、これは彼女の体液だから。

2006年12月18日月曜日

猫製造機

 猫製造機はやかましく、だが淡々と猫を製造している。
 地下の酒場の、そのまた地下に猫製造機はあった。酒を飲む男や女は、製造機の仕事に気付かない。
 生産されたばかりの猫は階段をあがり酒場に入り男女の足をかい潜り、さらに階段を昇って、ようやく外にでる。 伸びをする猫の目にネオンと月の区別はまだ付かない。
 今夜も酒場の亭主は、苛立たしげに床に散らばったコルク栓を蹴飛ばした。
コルク栓は勢いよく転がり、階段を落ちて猫製造機に吸い込まれた。
 猫製造機が大きな音を立てて稼働を始める。



*蛇腹姉妹「猫製造機」のために*

12月16日(土)
マメBOOKSが開催中のCafe FRYING TEAPOTで、蛇腹姉妹のライブが行われました。
演奏の合間に、私の超短編作品を朗読していただきました。
「猫製造機」は蛇腹姉妹のレパートリーである「猫製造機」を聞きながら書き下ろしたものです。
「猫製造機」は今後の蛇腹姉妹のライブでも読んでもらえるそうです。よかったね、猫製造機。(?)

朗読された作品リスト
「ろ」
「幻の酒パビムン」
「なげいて帰った者」
「すれ違い」
「猫製造機」

2006年12月17日日曜日

片恋の疑い

「やっぱり恋じゃないのか」
とアイスコーヒーで濡れた彼のズボンを拭きながら自問する。
すぐ隣にいるのに、ワクワクしない。目を見つめてみても、ドキドキしない。ちっとも。さっぱり。まるっきり。
今だって、こうしてふとももを触るなんてことをしているのに、冷めたこと考えている。
それなのに、毎晩のように寝る前に思い浮かぶのは何故?次はいつ会えるかしらと考えるのは何故?

冷たいコーヒーはすっかりズボンに染み込んでしまったのに私はまだハンカチでふとももを撫でている。

2006年12月15日金曜日

小さな波の作りかた

コーヒーに漣が立ったと思ったら、わたしの涙が落ちたのだった。

せわしない読書

読書にコーヒーが欠かせないのは私だけではないらしい、と今日も実感する。
古書店で手に入れた本の多くがコーヒー好きで、私がゆっくりと啜ろうと用意したコーヒーをどんどん横取りしていく。
コーヒーを飲んだ本は何故だかせっかちになり、早く頁をめくれとせがむから
おちおちコーヒーも飲んでいられない。

2006年12月13日水曜日

働くコーヒー豆

朝、コーヒーの香りで目が覚める。
独り暮らしの俺にはありえない状況。
コーヒーはカップの中で澄まして湯気を立てていた。
「誰がいれたんだ、このコーヒー」
するとコーヒー豆が瓶の中で大騒ぎしはじめた。
どうもコーヒー豆は、俺のぞんざいな扱いが気に入らなかったらしい。
豆自らいれたコーヒーは、普段の何倍もおいしかった。

2006年12月11日月曜日

コーヒーが冷めたら

喫茶店に通い、老人とコーヒーを飲む猫がいた。
猫は老人に懐いてはいたが、老人と朝の語らいをするために喫茶店へ通っているわけではない。
あくまでも、コーヒーを飲むためである。
猫は雪のように白い毛をしている。
その白い姿を褒めたり羨んだりする者は、人にも猫にも大勢いたが、猫は黒い毛皮に憧れていたのだ。
黒い水を飲めば、毛皮も黒く輝くのではないか、と猫は思う。
そんな猫の気持ちを知ってか知らずか、老人は今朝も二杯のモーニングコーヒーを注文する。
ちょうど冷めたころ、白い猫はやってくる。

2006年12月8日金曜日

コーヒーへの道

たまごを割ったらコーヒーが出てきたら、便利だろうなあ。
なんて思ったら、いてもたってもいられなくなり、ニワトリを買ってきた。
毎日コーヒーを飲ませている。エサにはインスタントコーヒーをまぶして与えている。
ひと月くらい経ったころから、少し黄身が茶色くなってきたような気がした。
ふた月くらい経つと、たまご自体が茶色くなってきたような気がした。
み月待つと、ニワトリの羽が茶色くなってきたような気がした。
でも、たまごを割ってもコーヒーは出てこない。
僕は待ちきれなくて、イライラしてくるから、どんどんコーヒーを飲む。
ちょっと胃が痛い。

2006年12月6日水曜日

角砂糖と脱脂綿

自転車で派手に転んで怪我をした僕を家に招きいれたその人は、コーヒーを沸かしはじめた。
膝や肘、あちこちから血を滲ませたまま、僕はソファーでその様子を見ていた。
怪我を消毒してくれる気配はない。鼻唄をうたいながら、のんびりコーヒーの支度をしている。

出来上がったコーヒーは二つのカップと一つの小さなボールに注がれた。
角砂糖と、脱脂綿が運ばれてきた。
そして、ボールに入ったコーヒーに脱脂綿を浸した。コーヒーで、その人は僕のキズを洗いはじめたのだ。
不思議と染みなかった。じんわりと温かく、撫でられているようだった。
ピンセットを持つ長い指をぼんやりと見ながら、僕はコーヒー消毒に身を任せていた。

あの人は本物の魔女だったのかもしれない。
怪我は翌朝起きると、かさぶたさえ残っていなかったから。

憧れのブラック

カラスがコーヒーを飲んでいた。車止めに腰掛けるように留まっている。白いカップが眩しい。
その姿が渋く決まっていたので、かなり妬けた。
僕はもうすぐ高校生なのに、コーヒーにはたっぷり牛乳と砂糖を入れないと飲めないから。

2006年12月4日月曜日

滲む味

そのまま、続けて。
裸でソファーにもたれカフェオレを飲む私を、彼は執拗に舐めまわす。
カフェオレを飲んでいる最中の私は、カフェオレの味がするというのだ。
ジュースやココアやカクテルでも試したのだけれど、ただ「私の味」がするだけだという。
カフェオレだけが、私の肌や粘液を通過してしまうのかしら。
それにしても、いちいちカフェオレを飲ませるなんて「私の味」が不味いと言われているようで、ちょっと癪。
あぁ、もっとカフェオレを飲みたい。でも、立ち上がれない。
空のカップを持つ手に力が入る。

2006年12月3日日曜日

夢、破れる

「珈琲ノ瀧」という滝に行くのが、長年の希望だった。
しかし、どこにあるのか、とんとわからぬ。
各地の図書館で、文献を調べること三十数年。
ようやく珈琲ノ瀧の在りかを見つけたのだ!
私はすっかり年を取ってしまった。だが、幸い足はまだ動く。

珈琲ノ滝は、草原に唐突にあるのだった。
天からコーヒーが注がれているような光景である。
湯気が立ち込め、コーヒーの香りが辺りに漂う。
私は、愛用のコーヒーカップを持ち、滝壷に入っていった。長靴越しにコーヒーの熱さを感じる。
滝の流れにカップを差し出すと、コーヒーカップは強い水圧で粉々に砕け散ってしまった。

2006年12月1日金曜日

今夜は眠れない

コーヒーの中は温かく、目が冴えているような、まどろんでいるような、不思議な感覚だ。
彼が「今日はコーヒー風呂にしたよ」と言った時には、冗談だと思った。
バスルームを開け、濃厚なコーヒーの香りと焦げ茶色の湯を見た時には、何の罰ゲームなのかと思った。
足を付けるのをずいぶんためらったけれど
師走の夜、一度裸になったのに湯に入らないのは辛い。
わたしは諦めてコーヒーに身を浸したのだった。
こんなにコーヒーの香りを全身に纏って、今夜は眠れないかもしれない。彼はどうするつもりだろう?