2017年12月10日日曜日

十二月十日 遠隔感染の原因

 一カ月ほど会っていない父が風邪を引いているという。よくよく聞いてみると、先週引いた私の風邪と症状がよく似ている。
 母は、私が父にうつしたに違いないと言い張っている。どうしたら会っていない人に感染させることができるのだろうか。
 この一カ月、父とは電話もしていないし、メールもしていない。もちろん電話やメールをしても風邪はうつらない。
 ただ、私が一番症状が酷かった日に読んでいた本を、父もその日に読んでいたということがわかった。本のタイトルは秘す。

2017年12月5日火曜日

十二月五日 お金が足りなかったおじいさん

お金が足りなかったおじいさんは、混乱を生じてレジの前でフリーズしてしまった。店員があれこれ話しかける。
「どれか買うのやめますか?」
「お金を全部出してみてください」
だが、おじいさんは小銭入れを指でかき混ぜる動作をするばかり。レジを待つ人の行列がだんだんと長くなる。
そこへ現れたのはこのスーパーの警備員のおじいさん。警備員のおじいさんは、ポケットから機械油を出して、フリーズしたおじいさんの鼻の穴にプシュっと差した。
おじいさんはやおら動き出し「これ、やめるよ。それで足りるかな」とトイレットペーパーを指さした。
無事に支払いを終えたおじいさん、「さっきはサンキューな」と、ポケットの中から機械油を取り出して、警備員のおじいさんの耳の穴にプシュっと差した。

2017年11月28日火曜日

十一月二十八日「お父さん」

夕方の駅前通り、「お父さん」と大きな声がした。私の見える範囲だけで、四人の男の人が一斉に振り返った。そして、また歩き出した。
今振り返った人たちは、みんな誰かの父なのだな。
ふと、「お父さん」と呼んだ人はどんな人なのか気になった。呼ばれた「お父さん」がどんな人なのか、も。今更だけれど、私も振り返ってみた。
ほんの一瞬で、辺りはだいぶ暗くなったようだ。後ろを歩く人々の顔や恰好はよく見えなかった。まあ、いいや、早く帰ろう。宵闇の駅前通りを右に曲がった。

2017年11月19日日曜日

十一月十九日 なぜ誰も歩かないのか

いつものように自宅を出ると、通行人が皆、自転車に乗っていて、歩いている人がほかにいないことに気が付いた。
老若男女の自転車に追い越され、なんだか居心地が悪い。家に戻って自転車に乗って出てくる、という技は使えない。なぜなら自転車を持っていないから。
大きな通りに出れば、歩行者もいるだろうと思っていたけれど、残念ながら当てが外れた。誰もが自転車に乗っていて、誰も歩いていない。
いつもの時間にいつもの道を歩いているだけなのに、不安に駆られて走り出す。徒競走は万年ビリだから、走ったって自転車のスピードにはとても追いつけないのだが、そうせずにはいられなかった。
ところがどっこい、自転車をどんどん追い抜いて、追い抜いて、追い抜いて、いつのまにやら私は知らない田んぼのあぜ道にひとり。

2017年11月16日木曜日

十一月十六日 泥棒

昼寝をしていると、ドアが開く音を聞いたような気がした。いま、家には自分ひとりしか居ないはずだった。
泥棒だったらどうしようか。
揺れる意識はそれ以上の思考にはならず、しばらく記帳していない通帳を持って銀行に行くと銀行員が誰もいない、という夢を見た。泥棒からの連想にしては、手が込んでいる。
今度はなんだか身体が重くて意識がはっきりしてきた。いよいよ目が覚めて重たい腹の上を探るとフワフワなのにやたら重量のあるボールが乗っかっていた。ボールというより毛玉。
これがドアを開けて入ってきた泥棒か……。何を盗んだのかと部屋を見回すと、いや、泥棒なら盗んだら逃げるはずで、ではこれは何だ? 
と思ったら、コロコロと毛玉は転がっていってしまった。

2017年11月14日火曜日

森の奥深くにある湖の話だ。
その湖は冬になると必ず鏡のように凍ってしまう。月が二つあるのではと思うほどにくっきりと映る。

その凍った湖へ、どこからともなく少年がやってくる。これも毎年のことだ。

少年は滑り、踊る。音楽を寄せ付けないほど静かな森の夜だけれど、音楽が聞こえてきそうな氷上のダンス。

毎夜やってきては、踊り、明け方にはどこかへ帰っていく。けれどもその冬一番寒い夜に、少年は凍ってしまうのだ。毎年のことだ。

氷になった少年は、春になると跡形もなく消えてしまう。湖底を捜索しても、見当たらない。これも毎年のことだ。

湖底を捜索するのは、必ず少年の姉だ。彼女はまだ冷たい湖に裸になって飛び込む。だが、弟の髪の毛一本見つけることは叶わない。

陸に上がった姉が何一つ残さずに消えてしまった弟を思って涙を流す。これも毎年のこと。そのせいで、この湖は少しだけ塩辛い。


2017年10月29日日曜日

十月二十八日 ショールーム

地下鉄の駅を出て、傘を開く。目的のショールームへの地図を確認したものの、自分の向いている方向がわからない。少し広い通りまで出て確認しようと歩き出したら、そこにあった。
広げたばかりの傘を畳み、ショールームに入った。八畳ほどだろうか、小さなショールームだ。
ここは、財布と巻尺のショールームである。
機能的な財布、高価な財布、大きな財布、小さな財布。
長い巻尺、短い巻尺、革のケース入り巻尺、ステンレスの巻尺。
財布をひとつ手にして「コインの出し入れの具合を確認したいのです」とスタッフに言うと、真鍮の小皿を差し出してくれた。そこには小さな小さな巻尺がザラザラと入っていた。